上西充子 呪いの言葉の解きかた
政権の欺瞞から日常のハラスメント問題まで、隠された「呪いの言葉」を徹底的に解く!(帯より)
タイトルの一文が、この本の中で、稲妻のように光って刺さった箇所だった。そうだ、私もやるせない気分と、怒りとかが混じり合って、足元がグルグル回っている感覚のときがある、上西さんも同じ体験をしているのか!まさに著者の上西さん自身が感じた怒りや憤り、やるせなさが、自分の共感に雪崩込んできた一文だ。
これは、2018年におきた財務省セクハラ問題で、麻生大臣の「セクハラ罪って罪はない」などの発言ばかりが報道されていた状況下のことである。人を愚弄するような態度の発言が垂れ流されている中、鬱屈した上西さんがセルフサービスのうどん屋でトレイの平衡を保てずに、うどんをぶちまけてしまった、というエピソードだそうだ。
このエピソードのおかげで、本書が人間の感情を抜いてしまった乾燥食品のようなスカスカな味わいではなく、人間の感情を含んで、まるでみずみずしい果物を食べているような感覚だった。上西さんの感じられたことが伝わってきた。
押し込めざるを得なかった怒り
もう何年前になるか分からない昔から、怒りをあらわにした記憶がない。親、学校の先生、サークルのしきたり、バイトの雇用主の一言、政治家や某会社の社長なんかの権力者の発言、などなど。
日常の何気ない一言、なにか引っかって、「おかしいな、違和感がする。」と感じるのだけれど、自分が何を言い返せばいいのか分からない。そもそも、言い返すのが正しいのか、それとも笑って流すのが正しいのか、もう一つ上からの俯瞰に陥って、思考の渦に巻き込まれてしまう。結果として、あいつらに言いたいことを言えずのまま、私が感じた違和感は、腹の中に赤黒くドロドロとした汚泥のように溜まって鬱積していく。
小学生や中学生、高校生の時はもっといろんなことに対して、「おかしい!」と怒っていた気がする。それがいつからともなく、怒りを感じることさえ制限されてしまったのかもしれない。これが今までの社会のルールだから、〇〇ならそうするべき、そんな言葉や空気で、私が昔持っていた怒りの牙を抜かれて、社会に順応させられた。現体制や多数派に合わせるように、違和感や怒りを感じないように愚鈍化させられた。そして、そんな自分になることを受け入れざるを得なかった。その過程で生じた摩擦が内側(自分側)に向いて、無闇に自分を責め立てる性格になってしまったんだろうか。それが大人になるってことなら、私は十分に大人になったんだろう。
言いたいことは沢山ある。吐き出したい怒りも沢山ある。隠し持っている暴力性なんかも沢山ある。これを書いている今だって、キーボードを打鍵する音はいつもより大きい。こんな文章とも呼べない書きなぐりを、怒りにまかせインターネットの海に投げ込んでも社会は変わらないし、意味がない、理性的な自分が思っている。
この本は、忘れていた怒りを思い出させてくれた。そして、私は心の奥底の小さな感情に、気付かないように調教されていたんだと本書を通じて気づかされた。
他にも本書では、労働をめぐる呪いの言葉(嫌なら辞めちゃえば?等)やジェンダーをめぐる呪いの言葉、政治をめぐる呪いの言葉が取り上げられ、それらに対するカウンターも提案されている。また、呪いの言葉とは逆の相手に力を与える「灯火の言葉」の章は、体の内側から力が湧き出てくるような感覚になった。